「傘」

――偽の傘など要らぬ。例え酸性の雨がこの頭を溶かそうとも。

六月の生ぬるい雨に打たれながら、鬱傘二郎(ウツカサ・ジロウ)は焦りを隠せずに居た。

――迂闊だった。この雨では何処へ流されるか分からない。

泥混じりの雨水に膝小僧を浸し、ぎこちない足取りで歩いている者は鬱傘以外にも何人か居たが、明らかに鬱傘だけが異質だった。
肌が雪のように白く、黒い目隠しをし、もう六月だと言うのに黒いロングコートを着てフードを被り、右手をポケットにしまっている。
そしてもう一つ。今日は一日中酷い土砂降りだと言うのに、鬱傘は傘をさしていない。
「傘」は有るのだ。黒くて細長い「傘」が、鬱傘の左手にしっかりと握られていて、杖代わりになっている。
この「傘」をささない理由、否、させない理由が鬱傘には有る。

――確かこの辺りだった筈だが・・・。

雨は一層激しさを増し、バケツをひっくり返したかの様に落ちて来る。親とはぐれた子供が数人流されて行った。
鬱傘が足を止めたのは、一本の桜の前だった。
桜の枝には、女が居た。
女は、自分の髪の毛だけで全体重を支えていた。
枝にぐるぐる巻きにされた髪が重力に耐えられなくなれば、小柄な女は美しい髪だけを残して忽ち水洗トイレの如く流されてしまうだろう。

――良かった。まだ流されていない。

鬱傘は右ポケットから鋏を取り出し、散髪を開始した。
重力と言う苦痛からようやく開放された女は、安堵の表情を浮かべたまま街の方へ流れていった。
そして鬱傘は「傘」を開いた。
内側から大量の毛髪が垂れて居るが、真ん中の一か所だけが空いていた。
鬱傘は切りたての髪一本一本に接着剤をつけ、丁寧に一本一本「傘」の空きスペースに貼り付けていった。
最後の一本を貼り終えると、嬉々として「傘」をさし、立ち去った。

鬱傘は禿げだった。


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特に何も考えずに書いて見た。
鬱傘二郎=魔礼紅という噂も有ります。